「所有する」という概念はなかなか特殊で曲者だと思うのです。

 

よく小さい時に「まんじゅう怖い」っていう落語ベースの絵本を読んだけど、あんな感じ。怖い怖いと言いながら頬張る、やめられないあの男の絵が自身を映し出しているような気がしてゾッとする。

子供の時はもちろん陶器ほどに純白なピュアなので考えが及ばなかったが、何かを買って自分のものにするあの中毒性のある快感。もはや、購入後に気づくのです。私が欲しかったのはその物イットセルフではなくこの気持ちだったのかって。

所有物を増やしていき自分の満足感が高まる、もちろん欲しいものを買ってるわけだから同時に自分の好きなもので領域を囲んでいく、そういうことを重ねているとふと気づく。

人がものを所有する限界に。

人生はまあ移動が伴うことも多いし、なんなら365日毎日使うものなんて部屋のものから引っ張り出せばたかが知れてるでしょう。物が溢れる私でさえ、バックパック一つで外国渡り歩いて来れたのだから。私の人生の一生を共に過ごせる生存力がある物なんてのもなかなかない。消耗品も多いわけで。常に今欲しいものをアップデートさせての繰り返し。

そして最終形態はそう、合言葉のように言われるあれです。

《人は皆死に直面している》

なんて言い出すと、もはやどれだけの大切な物や思い入れのあるものでも、一生そばに置いておくことはかなり不可能な気がする。そう考えると、ドラえもんの4次元ポケットはなんてよく考えられた道具なんだって感心するし、一生手に入らない欲しいものリストのナンバーワンですよ。

実家を離れ、はたまた海外に暮らすなんてなると、人生かけて集めてきた私のコレクションを全てこの手の中に!なんてはたまた無理で、哀しくなる。

人もまた同じよね、大事な人・大切な人を側に置きたい自己中心な考え方は究極な理想論でしかなくで、ずっと人生を共有できる距離感に居れること自体とても幸福なのだと思う。

人を所有、はたまた独占や支配なんてできない。

物も所有できない。

それでも今日も買い物に耽る私。